TOPへ    戦記目次    南鳥島戦記その2

平成22年4月20日 校正すみ

南鳥島戦記その1

大熊直樹

座標 北緯24度16分59秒  東経153度59分11秒
面積 1.51km2          海岸線長 6km     最高標高 9m
所在海域 太平洋       所属国・地域 日本(東京都)
昭和20年 - アメリカ軍が占領
昭和27年 - サンフランシスコ条約によって、アメリカの正式軍政下に入る。
昭和43年 - アメリカより返還され、東京都小笠原村に属する。
現在 一般市民の定住者はなく、気象庁(南鳥島気象観測所)、海上保安庁の南鳥島ロランC局(2009年に廃止)、海上自衛隊(南鳥島航空派遣隊)の職員が交代で常駐する。

はじめに

少しばかり大袈裟な表題とはなったが、そろそろ孫も出来たし、筆をとるチャンスもなくなる停年という時機が、確実に近づいているので、ここらで若かった頃の記録を、浄化された年寄りの思い出として許していただくことを期待して、披露することにした。

もともと押本兄から再三ご下命があり、素直にその気になっていたが、何しろ専門とはいえ引越の連続で、戦後早い時機に書いておいた小説風(?)の私なりの戦闘記録が、どう探しても出て来ない。やっぱり自宅に落付いてからでないと正確なものは無理だという結論に達し、少々オカシナかつ史実と違ったものでも勘弁してくれる多くの旧友ばかりと信じ、大胆にも筆をとった次第である。何卒間違いはご自分で訂正のうえ、ご寛容のほどお願いいたしたい。

 

(1) 南鳥島(マーカス島)の位置と地形

内地離れて1000マイル、北緯241730秒、東経15358分、小笠原列島の東、大鳥島(ウエーキ)の西、太平洋のそれこそド真ん中の一点、これが我が南鳥島である。中央進攻路を戦略とするニミッツ海軍が、フイリッピン経由を主張するマッカーサー陸軍に、ハワイにおけるルーズベルト大統領の前での大喧嘩に負けて以降、その指向する戦闘場面が南廻りとなったおかげで、今日生き延びている訳だ。

昔々、南新六という人が上陸して、日の丸の旗を上げた1時間後に、アメリカ海軍が来て、上陸しないままスゴスゴと引揚げたという歴史をもつこの島は、その名が示すとおり、まさに鳥の天国で、海岸いたるところに大きな卵が産みっぱなしで、目のさめる様な紺碧の泌みこんだ海水を、其の白いリーフが抱き、その中は珍しい小さな魚達の平和な住み家となり、また戦前、肥料会社があり、燐酸カリを掘るために相当数の人達が移住していていたところである。当時は内地とも可成りの往来があったと聞いている。

丁度「おむすび」みたいな三角形をしていて、その一辺の長さが1500メーターから2000メーターくらい、周囲は真っ白な珊瑚礁(リーフ)でかこまれ、その外側は直ちに数千メートルの深海となる。

島の標高、ただの7メーター、今の地図では10メーターと書いてあるのもある。泥がない。水がない。すべて真っ白い珊瑚の粉と鳥の糞。中央部分にジャングル(我々はそう称した)があり、高さ約1,5メーターから2メーターのモンパの木(桐の一種)が生い茂っていた。そして島より高い椰子の木が10教本、遠くから訪ねる船に、この島の存在を知らせていた。古老の話によれば、太平洋の真ん中に聳え立つこの島は左の図(略)のとおり、真中が細くくびれていて、しかも5年に一度位は台風時など全役するといわれ、着任当時は全く心細さといったらない、大変なところへ来たものだと思った。

 

(2) 遥かなる旅路

昭和19年3月、南西方面艦隊、第18戦隊の「大井」が、スンダ海峡を通過して、バタビヤに入港しょうという前日だったと思う。

少尉任官とともに「南鳥島警備隊附を命ずる」という無電がはいった。位置については直ぐ見当もついたが、どうやって赴任するのか、全く手がかり不明だ。とにかく航海長、谷井大尉(63期)のご指導とご援助を賜わり、松田、賀川、谷口、斉藤、大熊の五名の中から、先ず大熊少尉が巣立つことになった訳だ。

ところが、内地へ帰るに当り、少尉の軍装がない。陸戦隊の服装は主計長が用意してくれたが、それだけではあまりに可哀相だ。谷井大尉はついにご自分の第二種軍装を愛する部下へ。少し大きかったが糊のついた真白の、しかも尻尾のついた一人前の憧れの士官さん。本当に有難かった。おかげで何とか格好がついて昭和19年3月18日退艦、勇躍赴任の途についた。この夏服は横須賀から出発する前に、従兄の家(東京)に、私の遺書と短剣、軍帽などと一緒に預けて「さよなら」したが、東京空襲ですべて灰となった。

おかげでどんなことを書いていたか、今日恥ずかしい思いをしないで済んでいるが、ただチョッとばかり読んでみたくもある。

さて「利根」坐乗の左近允16戦隊司令官から「お前の命は帝国海軍がもらったよ」と盃をいただいて、シンガポールの水交社で、内地帰還の飛行機待ちとなった訳である。

パパイヤも腹一杯食べたし、もう一度バタビヤのデスインデスホテルのご馳走も「赤玉」だったか「丸玉」だったか、一本になり、飲みなおしに出かける時間もない。中途半端でとうとうシンガポール空港発。サイゴン、香港、海南島(三亜航空隊が丁度空襲を受けていた。雲があるのを幸い、我が搭乗の民間機はその中を逃げかくれ、生きた心持もない約10名、空襲終了直後着陸、地上部隊の人々からビックリされたが、一晩幕舎でお世話になり、翌日再び離陸)台北へ。雨が降って寒い。同乗の機関科コレス某君、飛行機酔い。背中をさすって励ましながらやっと台北着。また一晩台北泊り。(挺身隊だったか水交社だったか、4、5名の若い女性から、内地への手紙を頼まれた。コッソリ福岡で投函。勿論未検閲)翌日上海経由福岡は雁の巣へ。懐かしい博多の街を素通りして郷里久留米へ。我が家で一晩。父が、大熊家先祖伝来の、(銘は藤原尚行、有馬藩剣術指南大熊叉右ヱ門が殿様から拝領したものだった)佐々木小次郎バリの長い細身の大刀を、海軍式軍刀に仕立て直しをしてくれていたので、陸戦隊ならば、という訳で、有難く伝承した。(この刀、残念乍ら終戦後現地南鳥島で米軍に取り上げられた。アナポリスで保管するから名札をつけて出せといわれ、その通りにしたが、せめて鍔だけでもと象徴の鍔を脱して陸軍下士官用のものとつけかえ差出した。今我が家にはその象徴だけが残っている。アメリカに親交ある人が居たら返還運動をしてくれないか…。)

翌日長い、長い汽車の旅、やっとの思いで横須賀へ。

「何ニイ?南鳥島か。休暇をやりたいが、何時出港するか判らんからなあ! 毎朝顔を出せ。」といわれて10日間ばかり、横須賀水交社でブラブラ船便待ち。もう当時、裟姿は物資不足で煙草が買えない。水交社の食堂に入るとき一箱、出るとき一箱、「さくら」を買って東京へ。(後述するが南島島出発のとき特別に三ボール買い込む)。賀川(当時同じ大井の砲術士)の自宅へ遊びに行ったり、従兄のところでレコードを聞いたり、(その頃までは、わりと高尚な趣味をもっていたのかナ?)。最後は、今もお元気な賀川のお母さん(ご自宅でお孫さんからキンコチャンと呼ばれておられる)に粟ご飯を炊いていただき、お別れした。その時のお母さん手製の焼りんごの味も、いまだに忘れられない。今や遠く離れているが、ご高恩、決して忘れたことはありません。

なお(昭和48年から53年まで)東京本社勤務中、谷井徳光航海長には、左近允からの便りで、ご自宅を知り、ご一家にお会いすることが出来た。勿論大事な軍服をお返し出来なかったお詫びと、当時のお礼を申し上げ、懐かしい昔話で「一杯」いただき、とうとう大先輩を今度は陸の航海長にして、御自ら車の運転をお願いし、練馬石神井から荻津の我が社宅まで、送っていただいて、大変、失礼なことをしてしまった。

閑話休題、昭和19年4月某日、10隻の輸送船団が千葉沖に集結した。霞む三浦の山や丘、私は約15名の下官士兵と共に、これを護衛する海防艦「由利島」に便乗、一路南下をはじめた訳である。2日目だったか、父島に到着。二見港でサイパン行き7隻の船団とお別れ。(何故か彼等が先に出港、我々南鳥島行き3隻の船団は、ここで2泊したと思う。)父島では青い目をした人達が居て、何となく不思議な感じを受けた。多分日露戦争か第一次大戦後か、白系露とかドイツとか移民の後裔だと説明を受けた記憶がある。何はともあれ、これが最後という思いやりか、由利島の艦長(特務士官)、航海長(商船出)、機関長が誘ってくれて、父島の小さな旅館に一泊。翌日裏山で「わらび」狩りに行った。名前も顔も忘れてしまったが、145歳の可愛いお嬢さんが案内してくれて、籠一杯とった思い出が残っている。(昔から俺は優しいクマさんだった。ナットク?)

昭和19年4月28日、父島発(私の誕生日は4月20日)再び一路南島島へ。之字運動もやったのだろうが、幸運にも極めて平和な航海、パケという流しの針でひっかけた「シイーラ」という大きな魚の刺身(ピクビク動いていた)を賞味しながら東進。水平線の彼方に、ポッと2、3本の椰子の木が見えはじめた。「大熊少尉、着きましたね。」という航海長の声に、やっと着任か、ヤレヤレとホッとした次第である。だんだん近づくにつれて、まるで夢の国にでも来たような綺麗な島が浮かんでおり、嬉しさで一杯になったことを思い出す。これが一年半も地獄の生活をするところなどとは全く思いもしなかった訳である。とき、あたかも「動の前の静」というか、昭和19年5月2日の明け方であった。(参考 昭和19年5月3日、GF長官に豊田副武大将、親補さる。)

(3) 南鳥島警備隊

陸戦隊編成の警備隊で、着任当時兵学校出身は

司 令 少将 松原雅太(35期)
副 長 少佐(後中佐) 中村虎彦(59期)
通信長 中尉(後大尉) 柳村寛三(71期)

 そこに若さおれる大熊少尉は、指揮小隊長として、波止場の守備を仰せつけられたが、ほかに予備士官では大阪出身の赤木中尉、施設の渡辺(技)少尉、後に瀬川少尉、住友少尉、後藤少尉など早稲田、慶応出身の優秀な人材が、続々と着任した。この人達は、後の対空戦闘で高射砲指揮官となり、大活躍をしてくれた。

 中村中佐は、上海陸戦隊の猛者で、ピンと張った「ヒゲ」が有名だった。泣く子も黙るとかいう評判と違って、彼から叱られたことは、数えるほどしかない。それどころか失敗して司令から叱られている私を(かば)ってくれたり、同じ洞窟でいよいよ死かと覚悟したり、思い出多い大先輩である。戦後、鹿児島で割烹「水月」をなさっておられたが、今もお元気の由。忙しいとはいえ、なかなか出かけるチャンスがない。後輩として申し訳なく思っている。

(4) 戦闘

思い出の大きなものは、3つ、4つある。その他は、余録として機会があれば披露したい。とにかく30数年前のこと。悪い頭がますますボケているのでご勘弁乞う。

@ グラマン、TBF との対空戦闘

昭和19年5月20日、21日、2日間に亘り米艦載機による空襲を受けた。ボクの履歴書には「敵米機動部隊激撃戦闘に従事」と書いてある。この戦闘は恥ずかしながら、私にとってははじめて敵を見た、いわば実感こもる実質的な初陣であった。我々海軍は敵という「人間」を眼に見て戦うチャンスは近代戦では少なかったと思う。この点、少ない体験者の一人かも知れない。

―(戦記によれば)―

昭和19年5月2日、宮中で開かれた「当面の作戦指導方針に関する陸海軍統帥部御前研究」の席上、両統帥部を代表した島田軍令部長は、米戦略について「マリアナ・小笠原の攻略には、相当な犠牲の覚悟を要するのみならず、爾後、これが確保は容易ならざるをもって、まず我が基地航空兵力を減殺し、之が弱化を図りたる後、企画する算大なり」という見解を述べておられる。

また、続いて行われた陸海統帥部間の質疑応答でも、後宮参謀次長は、トラック、西部ニューギニヤの防備は自信ないが、小笠原、マリアナ地区においては、既に相当の守備兵を配置しあり、とくに五月中旬以降輸送予定の第43師団を上陸せしめ得たる場合においては、敵の攻略企図に対し、自信を有すと明快に答えている。念入りにも東条参謀総長も「サイパンは難攻不落です」と海軍側に言明している。(この日私は南鳥島に上陸した)つまり、敵はサイパン、小笠原には来ないだろう。また、たとえ来たとしても5月の輸送が出来れば戦力の強化が出来るので、絶対上陸させない、負けない、という訳だ。

昭和19年5月19日、第一機動艦隊は、タウイタウイ泊地に集結した。旗艦「大鳳」で、小沢長官は「あ」号作戦に臨む訓示を発しておられる。そして5月20日、豊田聯合艦隊司令長官は「あ」号作戦開始を下命、5月22日、旗艦「大淀」は東京湾から柱島へ錨地を移した。さて、背景はこのくらいにして、我が南鳥島は、である。

何時ものとおり午前4時頃(日の出約1時間前) 「配置につけ」で3000名の陸海将兵は、それぞれの持場で静かな夜明けを迎えていた。内地の梅雨空みたいな全天「曇」で、幾分晴れ間も見えようかという天候であった。

私は「波止場指揮官」、海軍3ケ分隊、陸軍1ケ分隊の小隊長として、上陸戦の最初を予定する波止場真正面の陣地を受持っていた。

この陣地は(1番〜4番機銃砲台と称す)25粍連装機銃 3基(内1基陸軍)13粍連装機銃1基(指揮銃)

まだ眠い。南ではあるが、朝はまだ(ほお)をなでる冷たい空気が、心持よい。ウツラウツラして静かな夜明けに浸っていた。その時である。フト不思議な音が聞えて来た。一緒にいた伝令(従兵)が「小隊長 何でしょうか。」と前方遥かな沖合の空を指さしている。蚊の群みたいな「ブン、ブン・・・」それが段々大きくなりながら近づいて来る。

「オカシィ、何だろう」 「内地から飛行機が来たのかナ?」………

「飛行機〃 戦闘用意」思わず号令を掛ける。「友軍機ではないカナ!・・・」心の片隅で未練の期待がチラリ。しかしチラリ、チラリ、雲の切れ間から…3機、5磯、いや10数機。まだ、いる。いる。胸がドキン、ドキン、早鐘だ。

「よく見ろ、機種は何か。」 

「小隊長、グラマンです。」

世界一の見張力を持つ、我が海軍の下士官。

「電探は何をしとる?」チラッと頭をかすめたが、もうそんなヒマはない。順序通りの号令は何ひとつかけた覚えはない。恥ずかしながら何時の間にか、やっと首から下だけ隠れる井戸側のようなタコツボに這入って双眼鏡を握りしめ、一生懸命、キラッキラッとする雲間を追かけていた次第である。鉄兜をかたく締め、短い指捧棒を手にタコツボを唯一の砦として、真っ青な顔で、武者振い(?)しながら、全く皆に見せてやりたい凛々しさであった! 着任後20日も経っていないし(へそ)の緒切ってはじめての対空戦闘だ。諸君笑うな。徳川家康でも初陣で逃げたときは脱糞していたそうだから。来た! あっという間もない。真正面の雲の中から、まるでスポーツでも楽しむように急降下 ダイビング!・・・グヮーンという覆いかぶさるような音で、グラマン、TBF、これが50瓩の爆弾を一発ずつ腹に抱いて、真赤な機銃の弾道とともに、一気に突込んで来た。その発射する弾道は実に鮮やかで、しかも我が機銃陣地へ集中して来た。つまり南鳥島としては我が陣地が、はじめて敵の集中攻撃を受けた訳である。

「グラマン」、さては空母と直ぐ頭に来た訳だが、何処に何隻いるのか、残念ながら水平線しか見えない。とにかく重苦しい不安とおそれは一気に吹飛んだ。我が指揮銃(3番砲台)は直ちに射撃開始。他の25粍機銃も自動的に打ち出した。もうそれこそ阿修羅の様な戦場だ。何といっても聞えない。我が方も5発か10発ごとに曳痕弾を入れているので火線がはっきり判る。ガンガンガン、 とてつもない音というより風とともに、何も見えない。聞えない。爆風と煤煙、それに砂埃。気がついたら私は大事なタコツポともども、フッ飛ばされていた。鉄兜の紐は切れているがすぐ傍に落ちていたので、あわててかぶる。「伝令〃 伝令〃」大声で探すが居ない。横の砂が動いている。オヤッと思うと、毛布をかぶった頭が、ゴソゴソと這い出て来た。

「コノヤロー」あまりにも狭いタコツボから何時の間にか這いだしていたらしい。何も聞えない。しかし何処からも血は流れていないようだ。ホッと「まだ生きている」という実感が蘇る。目の前の13粍陣地へ飛込む。ここは皆健在だ。小隊長は正しく号令がかけられなくても、立派な部下がいる。日頃の訓練よろしく(?)まさに不思議な位、立派な戦闘振りである。これがとにかく、初めて戦塵をかぶった私の体験である。台風も息をつく。戦場も息をつくようだ。

ホッとして見廻すと、煤煙で真っ黒になった顔から、黒い汗がボトポト流れ、目の玉だけはギョロギョロしている。

「負傷者はいないか?」やっと責任者としての自覚を取り戻す。

「4番機銃(陸軍)全員負傷!」

上空の敵機を気にしながら、数十秒で同陣地へ飛込む。射手は引金を引いたまま、ヒック、ヒック鼻から提灯。爆風とはヒドイものだ。直撃を受けて腸が鼻や口からダラリと吹出している。

「死んでも ラッパを……」 チラットそんな文句が浮ぶ。幸いなことに何とか動けるのが3、4名いる。「担架用意〃 治療所へ運べ」動こうとしない負傷兵の尻を叩いて激励する。もうダメだと判っていても、何とかというのが人情ではなかろうか。滑走路の向うのジャングルへ運はせた。この射手は、鹿児島県出身の大学出であった。後日、御両親あて立派な戦死の模様を手紙でお知らせしたが、果して着いたかどうか。多分海没したのではないだろうか。

次の空襲の合間に、本人の様子を見させに走らせたが、再び其処は直撃を受け肉片のかけらもなく、穴しかなかったという報告である。全く何ともいえない気分になる・・・。

さあ、しかし、こうしてはおれぬ。この機銃何とか早く打てるようにしなければ、又やられる。部品交換、必死になって修理にかかる。又来た、来た。仕方がない。指揮銃陣地へ飛込む。

「弾丸を大事にしろ、爆弾が機体から離れたら、何時迄も打つな」

(こんな号令はアメリカにはないだろーナ?)

「もうやめんか〃」射手の鉄帽を指揮棒で叩く。本人は益々歯を喰いしはって引金をゆるめない。敵の弾が当ったと勘違いしている。後からの反省会では全く笑い話だった、真剣な戦場、本人は大真面目だ。いろいろな事が起る。この射手、二等下士だったが翌日の戦闘で彼の鉄帽に、本当に敵機の機銃弾が当り、内側を一廻りして飛出したらしく、大きな穴と大きな筋がついていた。今考えるとみな機銃弾だった筈だから、そんなことが果して可能性として(?)と考えると、オカシナ気もするが、確かに私は見たし手で触ったのだからという如実な記憶の中で、いや、やっぱり確かにそうだったと思っている。残念ながらこの幸運の二等下士も後日の戦闘だったか、飢餓の島になってからか、私が司令部に移った後戦死した。

概ね一度に来襲する敵機は30機乃至50機。我が陣地目前の奴しか数える余裕がないので少々違うかも知れないが、でも機銃修理完了したときは実に嬉しかったね。さあこれで何機でも来い。戦友の仇討だ。陸軍の分隊長を激励、我定位置へつく。タコツボは簡単に修復済、フト気がついた。我が愛する部下全員が、ジット私の動作を見守っている。とにかく皆の視線を感じた訳だ。「ウッ?」何かいってくれというような、あるいは訴えたいような目付きをしている。私自身もこの時、やっと我を取り戻したのではなかったろうか。汗ダクではあったが、煙草一本「スパーッ」とやった。・・・どうだ。皆がそれこそホッとした様な、また今までの張りつめた表情から、何だか表現し難いが、急に和やかな空気がスーッと流れて、私にならってスパリ、スパリやりはじめた。中にはニコリと手を上げて合図してくれている。やっぱり頼りなくても指揮官は指揮官。大事な場面の大事なシグサ(?)だったと今でも忘れられない。

午前中の空襲は2回だったか、3回だったか、合間に昼食が配られた。肉の缶詰だ。本来なら直ぐ飛付くのだが、どうもいけない、目の前に分散配置されていた陸軍部隊の戦死者の肉片か、太ももと見えるモノがユサユサした感じで転っている。赤い色あい、脂のマダラ、どうもやっぱり。

水と一諸に乾パンだけかじる。流石に伝令も変な顔して食おうとしない。ご存知の死臭がプーンと漂っている訳だ。

30度! 大編隊!」今度は電探がつかまえた。「段々近づく!」もういいよという気特のほかに、今度はチョヅピリ度胸が出来た。

「それ!・・・」 「打方始め〃」あとはまた映画以上の凄まじさ。活劇の主人公となる。目の前で「ポッ」と火を吐いて落ちる。それも海面へ真っ逆様に激突する。「ヤッタ!・・・」落した我々より観戦中(?)の陸軍部隊が大歓声を上げている。陸軍は上陸戦用だから、その都度敵機来襲の反対側に分散配置、可哀相に定位置がない訳だ。午後も2回だったか、3回だったか。よく叩いてくれた。

さて、その晩がまた大変だった様だ。若い指揮官すっかり疲れてしまった。晩飯は何を食ったか忘れたが、とにかくよく眠った。翌朝、従兵に起されるまで、覚えがない。しかしお年寄りは眠れなかった由、つまり陸軍部隊が上陸戦に備えて、戦車を我が陣地の後方へ持って来たり、大変な騒音だったようである。

2日目は午前中2回ほど又大編隊でやって来た。昼過ぎだったかな、もう来ないと判断して司令部へ顔を出した。真黒な顔をして、しかも前述の日本刀を握りしめ、如何にも百戦錬磨の猛者みたいな気分で。中村副長が抱きつかんはかりにして喜んでくれた。

撃墜34機だったか37機だったかで報告した様だ。戦果は重なる場合が多い。あしからず。ただ私の目の前で撃墜したのは、7機はあったと記憶している。

さてこれで、サイパンの陽動作戦が終った訳である。

・・・・休憩・・・・

◎ 千代の富士ではないが、戦うときは目をそらせてはいけない。航空実習の初日、岩国上空で横スベリを体験させられたが、TBFも突込んで来るとき、やっぱりスベラせて来るのがいる。この爆弾は当らぬ。少なくとも3回目以後の空襲では我が方の勝だった。絶対に逃げないで打ち込む。

 

◎ ニヤリと笑ったグラマンのパイロット。

ヤンキーもさすがだ。超低空、戦後かなり経った頃まで夢に出てくれた。

◎ 戦闘の記録を続けるとすれば、どうしても、艦砲射撃を受けた昭和1910月9日は省けない。ペンシルバニヤ型戦艦1隻、ペンサコラ型重巡2隻、向うさんの発表は重巡ポーター型駆逐艦7隻。よく打ちまくってくれた。うちいよいよ「終り」と覚悟した。夜中に海面一杯灯火がチラチラ、上陸用船艇が一杯浮かんでいるようだ。これまた(レイテ上陸作戦支援のための)台湾沖航空戦の前段。南鳥島は何時も陽動作戦だ。ハルゼーさんも人が悪い。こっちは真剣になって中村副長とっておきのウィスキーを頂いたのに。でもオカゲサマデ……。

◎ サイパンから毎日の爆撃、B-29250耗爆弾を1機で22発持ってくる。それが12機編隊。実に正確な爆弾投下。島が小さいので先ずこちらの海上から落ちはじめて反対側の海まで絨毯爆撃だ。おかげで魚が一杯浮く。ただし戦っている海軍の口にはあまり期待出来ない。用事のない(?)陸軍の兵隊さんが、命がけで、リーフの中に待機(陸軍の任務=上陸戦以後、従って対空兵器なし)

◎ 陸軍士官学校出身 戦車隊長で中村という大尉がおられた。陸海ゴタゴタ(?)で直属上官の連隊長を射殺。内地へ送還されたが、戦後北海道の監獄で服役後、模範囚人で出所されたとか風の便り。身近な問題、あのときは慌てたなあ。

◎ 降伏調印。サイパンから駆逐艦2隻、メイラント号とドネ7号。グランド代将がやって来た。これもやっぱり書かねば、私の昭和戦記は終らぬ。

では再び戦闘記録に移りたいが、その前に飢餓の状態となったので、背景として極限に近い食の話をしておくこととする。

 

(5)「職」と「生活」と

 (飢餓島マーカス)

―(米)― 着任当時はまだまだ良かった。ただ私も当時まだ元気溌剌だったから、少しばかり足りない。そこで朝の味噌汁はお代りをしていた。7月5日 サイパンでは南雲中将が、総攻撃命令を出しておられる。飢え死するか最後の突撃か。今や止まるも死、進むも死・・・遂に6日 自決された訳だが・・・

この頃から朝の味噌汁も一杯だけ。粉味噌で乾燥野菜。飯も茶碗一杯だけ。これが段々少なくなる訳だが、どうしたことか昼食と夕食、確かに食った筈だが米の量がどの位だったか記憶にない。ひたすら輸送船を待つことしきりだったが、大きなサイパンの戦闘だ。期待する方が無理だった訳だ。この頃から本当に飢とのたたかいが始まった。

 

(極限には自殺者も出て来ることになる。)

機帆船による食糧輸送が電報で知らされ、今か今かと待っていると、米潜や機動部隊で太平洋の藻屑。乗組員も気の毒なことだ。何時だったか、病院船が一杯米を積んできたが途中で米機動部隊に封印され、我々には涙をのんで渡せないことになった。内地送還の傷病兵を乗せる準備をしていたら、また空襲で病院船の連中から島がなくなったかと思ったと心配されたが、とにかく激しい爆撃の連続で、早々に立去った病院船のウラメシサ。

本当に最後の命綱は、我が精鋭なる潜水艦しかなかった。はじめて弾薬と米とが到着した時の嬉しさ。大発のチャージとなって夜明けと共に空襲前に何とか荷揚げを完了しようと必死に頑張っていると、来た!・・・やっぱり、やって来た。潜水艦は急速潜航。我々は「配置につけ!」もう間に合わぬ。ドカン、ドカン!・・・航海長からいただいた「2ボール」の「さくら」をしっかり抱いて、近くの防空濠へ飛込む。こんなところで、先輩に会おうとは・・・この「たばこ」小生横須賀出発の際売ってもらった「3ボール」とともに、後述する艦砲射撃を受けた夜、我が部下一同に分配した。

チョッと横道にそれるが、誰がもって来たのか煙草の種を植えることが流行しだした。成長も早い。日蔭干しも、そこそこに、すぐ紙巻きたばことなる。紙は古雑誌や手紙。時々何だか判らない葉っぱも混入していて、せき込んだりしている。専売法違反には問われなかったが、マズカックナアー。

さて松原司令も、とうとう「我弾薬不要、米の輸送を優先されたし」という思い切った電報を打たれた。ガ島の勇士は食わないで歩かねはならなかったが、我々は寝ておれば良かった。しかし、それでも今考えれば、良く耐え抜いたものだと思う。同じ餓鬼道やっぱり苦しかった。

太っている人は目立つ。このひもじい毎日なのになぜ彼だけ? 或る日士官室の従兵長が、若い主計長から徹底的に殴られた。顔が変形している。士官室だって何も無い筈だが? 忘れもしないその翌日、爆撃で彼の防空壕が直撃を受けた。生き埋めとなっている彼をやっと掘出し、私自身の手で一生懸命人工呼吸をしてやったが、遂に戦死した。もっとももう肋骨も折れていたので、はじめから無理だったと思う。いやな話だがついでだ。その主計長は、その後内地から一式陸攻がやって来て傷病兵と打ち落したB-29の乗員を引渡しに内地出張され、再び帰任の時、その搭乗する陸攻が遂に南島島を発見出来ず、「天皇陛下萬歳」と平文で発信しながら、プツンと切れた。その後も燃料はとっくに切れた時間だったが、あえて探照灯を夜中まで照射。しかし天空にかかる雲間から遂に彼の童顔は現われなかった。おかげで翌日は大空襲を受けた。

―(アルコール)―

司令が消毒用といって個人所有のウィスキーで手を洗っておられた。

 私はチットも欲しくなかったから、部下に悪いからとか、もったいないからとかご注意申し上げる気はサラサラなかった。

中村副長は高価薬の様に晩酌でチビリチビリ。勿論これも上海陸戦隊以来持ち歩いておられる個人の洋酒だから誰も文句をいう人はいなかった。私はじめ皆がむしろ彼にはもっと飲ませてあげたいと話し合っていた。

艦砲射撃を受けた晩に、いよいよ最後だということで飲んだ配給の日本酒、あのニガイ様な変な味いまだに忘れられない。

―(水)―

水は「モンパ」の木の下につくった幕舎の屋根を伝わってくる、天の恵みをドラム缶に集め、ポーフラがわいてから煮沸して飲む。掘ると真赤な塩水が出るが、これが大変な水で赤痢菌を一杯含んでいるので、どうにもならない。かつて肥料会社の人達も赤痢には勝てず、多数の死亡者が出た為戦前既に無人化していた訳である。

私が着任した時は島の一角に、造水装置があり、細々ながら海水から真水を採っていたが、3000名の将兵にはとても間に合う筈がなく、それこそ生活の知恵、小隊、分隊単位で、天を仰いで雨水を乞い、自家製の貯水装置を確保していた訳である。

―(野 菜)―

さて、この島には泥がない。つまり畠が出来ない。内地から食糧弾薬と共に、泥を送ってもらった由であるが、何処を見て廻ってもそれらしい「かけら」すらない。天然の憐酸カリはかりでも、泥がなければ食い物は育たない。ただ幸いなことに栗南瓜が少々。メロンも少々、しかも味ときたら美味、これに過ぐるものはないと自慢出来る貴重な品が採れる。ただしそれぞれの自活単位で、狭い範囲内の厳重な見張下で育てられ、全くチョッピリ薬になる程度であり、収穫後一週間位抱いて寝てから一切れずつ口に這入る。近頃の食事は勿体ない。一滴も無駄にしないで食べたものだがナ。行儀が悪いと叱られるのでこれまで。

誰が持って来たのか判らないがペンペン草を一生懸命繁茂させた。これを煮沸して灰汁抜きして、主食とし、あるいは塩漬け(これはウマイ)したり、いろいろ工夫したものである。

なお前述のモンパの木の葉っぱも、同様加工法により、大切な主食となった。ただし、これはチットもうまくない。想像してもらえば判ると思うが青桐の葉を、いくら煮沸したとはいえ、今頃食べる気の起る人は? よくよくのことでないと食えたものではないが、でも若い胃はよくよくこれに耐えて、消化(?)したものと、今更ながら自分の胃袋に感謝しこの頃は毎日アルコールの栄養でお礼申し上げている。(この理屈、猛典先生や富士和尚に叱られるかナ?)

―(肉・魚)―

着任当時は数頭の豚がいた。残飯で生きられなくなったのだろうか、極めて短期間に蒸発した。しかし少なくとも私の腹の中では記憶にない。犬、これも数匹いた。不思議なことだが跡かたも留めず直ぐ消えてしまった。胃袋に聞いたが、これも記憶にない。ただし、この方は今でもチットも残念には思っていない。

とにかく目ん玉ギョロギョロしても、陸上では人間と椰子蟹(親指大)以外は、誰も見逃す生きものは生存しなくなった。なお椰子蟹は、すべて赤痢菌を持っており、これが目の前を走ると、ついつかまえて口に入れ、その晩から翌朝まで3040回の下痢をして、戦死者の仲間入りをした人が数え切れないのは残念至極であった。主に補充兵や少年兵に多かった。海の真中だから魚は採れる。着任当初の平和な時代は、大発に乗って島の廻りを巡検する。ついでにワイヤーの先に大きなパケという針をつけて流すと鮭やしいら、それに鮫がくいつく。しかし省エネではないが、そう再々小隊長自ら出漁するわけにも行かず、やがて毎日の戦闘でこれも出来なくなった。サイパンが攻略されて以来、前述のとおり水際戦まで用事のない陸軍は生命がけで浮いた魚を集めて自活単位の食糧とする。わが海軍は高角砲や機銃陣地で対空戦闘。残念ながら配置から離れられない。おまけにカボチャやペンペン草まで無くなる。浅ましい話だが陸海極めて低次元の啀み合いが続発した。我々司令部や仲の良いところはお裾分けをもらったが、陸軍だって言い分はあったろうと思う。

―(燃料)―

燃料といってもイラン・イラクの石油の話ではない。つまり艦本式の罐ならぬ民の「かまど」の薪の話だ。

平和な時代は、ミニジャングルの枯木もあったし、米を炊くことまで心配はいらなかった。今考えると、ほんとに「対空戦闘」のない日は思い出せない位、それ程連日の爆撃だから、たまったものではない。全島丸裸になってしまった。はじめは、これ程まで考えなかった訳で、毎日の戦死者を焼かねばならないし、油をかけてもやはり拾い集めた薪が主燃料であった。これが大変なスピードで無くなって来た。

大きなそれこそ航空母艦みたいなこの島。戦略上は極めて重要な位置であったろうが、残念ながら移動が出来ない。従って敵にその存在を伏せる必要もないし、毎日のご出勤でサイパンではおそらく隅々まで何処に何があるまで詳細に判っていたであろう。堂々と火や煙をあげても良いのだが……。

書き出しでは「民のかまど」としたが、この話「火葬場のかまど」に変る訳だ。

爆撃では多い日は30名も一度にやられたこともあるが、普通の日は1〜2名、それに前述の飢餓による戦死者が加わる。特別に火葬場を設けている訳でもないので露天で焼くのだが、もう燃料がない。ジャングルの木は誰かの頭ではないが、大切な一本一本だ。せめて今生残っている者のためにお許しあれ。

何時の日からか戦死者は小指だけ切離し、火葬に付し、申し訳ないが、あとは(あとの方が本体だが)爆弾の破片や高角砲の薬きょうを抱いていただいて、深海に沈んでもらった。誠に残酷物語で書きたくないが、以後付近は鮫が急増し、まるまる肥った奴が採れたとか。少なくとも私の胃袋は記憶していないので名誉のため付言しておく。

 

―(太陽)―

さて次は、少しは明るい話にするか。太陽だ。これこそ何も不平のいい様がない。全身で天の恵を享受した。殆んど防暑服。ハイカラーの洗濯も要らないし、ズボンの皺などと心配する必要もない。毎日一〜二時間上衣をつける。つまり戦闘中だ。はじめは長いズボンをつけよと指示していたが、そのうち上陸戦という大事な最後の儀式に備えて、大切に各人で保管することにした。武士のたしなみ、褒めていただきたい。

 

―(訓練)―

連日の「対空戦闘」と絶えず迫って来る「飢死」という極限状態や、一番気の毒だったのは訓練を受けないまま配置された人々であった。この歳になれば「生き残った方が艮かったかどうか」などと道を極めた様なことをいう人もあるが、「生きたい」ということは人間の本性だと思う。人皆禅坊主ではないので、これは当然だと思うし、これを「恥」だとか「煩悩」だとか一笑に付すようなことは出来ない問題だ。

我慢する、耐える、これは訓練を受けたから出来たのかどうかいい切れるものではないと思うが、やっぱり大きな要素ではあろう。教養もあり、学歴も最高学府を出た人達(複数)が餓死だけでなく小銃を口にくわえて自殺した。おそらく残った我々と違った頭脳の持主だったろうが・・・。また繊細な神経の持主でもあったろう。

(今回はこの位で筆をおく、次回は「艦砲射撃下の南鳥島」などを考えてはいるが果して・・・)

 

(編集士読後所感)大熊少、中、大尉(この孤島での一年半の奮戦中、クマさんは二階級進級した)本当にご苦労様でした。それにしても35期の司令松原少将はその当時、丁度われわれの現在の年輩に当るわけで、それだけでも「戦争はしちゃいかん」と思った。

クマさんが「南鳥島終戦の一コマ」と題する短文を本誌14号に発表されて13年が経った。「艦砲射撃下の南鳥島」という続篇が、1年以内に発表されることを期待している。

(なにわ会ニュース45号40頁 昭和56年9月掲載)

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