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思い出草(その4)

航空隊の部

 弘次

昭和18年9月15

卒業式を終り「ロングサイン」に(はしけ)は表桟橋を離れて行く。校長、監事長、各監事、教官方、又官舎の夫人、倶楽部の小母さん・・・下級生が岸壁にぎっしりと並んで帽を振っている。左様なら! 軍楽隊の吹き鳴らす「ロングサイン」が「海行かは」 「軍艦マーチ」が高く低く響いて来る。昨夜御訪ねした自見少佐と高橋中佐の官舎のことがチラリと思ひ出された。教官も夫人も本当に自分の子供に聞かせる様に弘次にあれこれと最後のお話をお訓へ下さった。「今度此方へ来たら必ず寄れよ」 「今度いらっしゃったら御馳走致してあげますからね・・・」―  皆左様なら。「今日は手を取り語れども明日は雲居を他所の空…」。別離

が阿多田に着いて乗艦。前艦橋の旗甲板に佐藤、伊吹と三人で立った。山城が主砲12門を一斉に仰角をかけて出港。次に八雲、阿多田の順。下級生が「カッター」を漕いで湾口迄見送りに出て呉れる。教官方も水雷艇、内火艇で来て下さる。「萬歳」 「萬歳」の連呼。

津久茂の鼻をかはると、生徒館が見えなくなる。「さらば」再び見ることなき懐しき生徒館。三春秋を鍛へたる江田島よ「さらば!」

都沙美の瀬戸で山城、八雲と別れて阿多田は宇品に向ふ。宇品から市電で広島駅へ。・

雨がやって来た。8時50分迄の時間を佐藤、佐々木、伊吹の4人で映画を見に行った

「奴隷船」…時間が無くて始めの方だけしか見られなかったが低級な映画だった。

8時50分広島発呉経由で東京に向う。賑かな列車に雑談の華が咲く。酒保を開く。候補生の凛々しい服装につゝまれてはちきれんばかりの元気が溢れてゐる。嬉しそうな顔…

 

昭和18年9月16

弘次は眠ることに勉めた。姫路大阪と何時しか過ぎ、京都で朝食。次第に豊橋が近くなって来る。葉書の終りに一寸書き足した丈なのだが来て居るかしら。お会い出来たらお母さんや千葉先生はどんなにお喜びになるだらう。・これからは、もう御会ひ出来なくなるかも知れないから是非お会いし度いな・・・岐阜、名古屋、岡崎と汽車は進む。服を着換へた。「カフス」も変えた。美しい三河湾が見えた。大島、小島、蒲郡、三谷、もう御津を過ぎた。豊川の鉄橋がゴーと鳴る。見覚えのある踏切、着いた!豊橋。矢張り来て居て下さったお母さんと妹と千葉先生。列車の中であれとあれをお話ししてと思つたのに、よそ事に取紛れてさっぱり御話し出来ない。お母さんに御話し出来たのは刀と電報為替のこと丈だった。

猛ちゃんを千葉先生に紹介した。御土産を頂く。もう停車時間が過ぎて「ベル」が鳴っている。「元気でしっかりやります」 「お暇が出来たら豊橋へ帰っていらっしゃい」お兄さんの病状をはっきり聞けなかったのが残念だった。技術将校はお断りの手続きを取ったとか・・発車。左様なら。お土産は弘次の好物の寒天と「メロン」、二十世紀、それから御赤飯。皆と大喜びで頂いて又眠った。浜松、静岡、沼津、電気機関車になってからは非常に気持がよい。夕方近く熱海を通過。磯に砕ける(なみ)が白く立って印象的だった。小田原、大船、次第に駅に立つ人の数が多くなる。東京駅で下車。ばらばらに省線で上野駅に向う。省線の中で何だか裟婆に来た様な感じがした。

8時50分上野発。常磐線は横揺れがひどい。又一眠り。1010分頃、荒川沖駅着。航空隊のバスで霞空の学生舎に入る。食堂に集って室割を聞き解散。弘次はA115号室。

同室者は4人。弘次以外小原、澤本、清水。

先任者は小原。室内に洗面所、衣服柵、書柵チェスト、寝台、デスク等あって相当によい。

明日の準備、身廻整頓などして寝たのは12時過ぎ。

 

昭和十九年9月17

5時30分起床。あまり睡いとも感じなかった。5時45分食事。7時に軍艦旗掲揚

あり、終って司会に伺候。次は事業服に換へて身体検査。視力左2.82.0 2.8には驚いた。体重は61キロ。血沈「レントゲン」。

午前中で身廻整頓を終った。午後は隊内見学。3時頃に身上書を書いた。夕方入浴を済まして整備講堂に映画を見に行った。「ニュース」と外国映画の歌と踊り″、美貌の敵=B歌と踊り〃は映画レヴューみたいなもの。美貌の敵″は「フランス」映画のよい所を持ってゐた。「コーラ・テリー」 「マーラ・テリー」姉妹の葛藤と大いなる愛の勝利。千葉先生に訓へられた愛と「マーラ・テリー」の愛と似通ってゐる…と思った。そして素晴しい「フレー」の踊りを見てよいなあとは思ったが、陰に秘む不断の練習が思はれてならなかった。室に帰って間もなく、小原の親戚の少尉が来て話をして行った。弘次は就寝。本当に久し振りに見る裟婆の外国映画から受けた感動は大きかつた。

 

昭和18年9月20

入隊二際シ所感

大東亜戦争益熾烈ヲ加フルノ今日、熱望セル航空隊ニ入隊シ得タルコト本懐此ニ過グルナシ。唯努力アルノミ、日常ノ煩事ヲ立派ニ克服シ、以テ己ニ克チ、以テ忠ヲ致シ得ル人格ヲ鍛へン。

兵学校ニ於テ受ケタル訓育ヲ真ニ己ニ生カスベキノ時、真ニ自啓自発己ヲ磨クべキノ時。大イニ奮ヒ、大イニ努カセン。血気ニ逸ルコトナク、如何ニシテ死シテ後、己マザルノ粘リヲ養フニ努メン。要ハ唯、努カセンノミ。

 

昭和18年9月18日(土曜日)

午前中何も無し。身廻整頓。午後1時軍艦旗掲揚後、始業式あり。講堂に於いて海軍練習聯合航空総隊司令官海軍中将原忠一閣下の訓示と霞ケ浦海軍航空隊司令海軍少将三木森彦閣下の訓示ありき。原中将は実に張切った人なり。

夜は映画むすめ〃と。Man with wingsとの二つ。午後6時から9時過ぎ迄長く感じたり。むすめ〃は途中の一巻、肝仁な所を抜かしてしまったので面白くなかった。パラマウントの。Man w−th wings。は相当な映画構成法だと思った。天然色映画は矢張り椅麓だ。アメリカやるな!と思った。

 

昭和18年9月19日(日曜日)

朝食後直に「バス」に乗って荒川沖で6時40分の汽車に乗る事が出来た。急いだので切符を買はずに入った。1時間30分で日暮里着。京浜線に乗換。大井町で運賃清算をやった。9時、緑ヶ丘着。叔母さんがとても喜んで下さった。その内に叔父さんも御帰り、お昼にお萩を作って下さった。叔父さんの棚作りの御手伝いをした。午後2時頃から村上さんに遊びに行つたが文男君は不在、ピアノを弾いて電蓄を聞いてアルバムを見て小母さんと御話して6時近く迄御邪魔した。お赤飯を炊いて下さった。6時に出港。7時10分の上野発の列車に間に合った。8時40分土浦着娑婆の「バス」で帰った。

昭和18年9月20日(月曜白)

朝5時にならぬのに従兵が間違へて鈴を振って歩いたので眠かつた。7時から通信、送信練習、7時半まで。8時15分から飛行場で機体に関する整備の分隊士の説明、11時15分迄。午後は1245分から体操があったのに時間を間違えて皆出なかった。1時20分から機体の分解検査。お手てが汚れて真黒けのけ。バラすのは面白い。右主翼を受持った。食事前までかかってバラし終った。

夜は通信、70字の受信が早いかなと思う程に技倆が落ちた。

 

昭和18年9月21日(火曜日)

雨。体操が無くて5時30分起床。秋雨の起きがけの陰気さは嫌だけど、30分余けいに眠れるのがいい、アハ……。「マント」を着て整備作業に行く。運動靴を忘れて取りに帰って途中隊列から遅れてしまった。「コンクリート」道路にピチャピチャと雨が降る。ジャノメデオムカへウレシイナ ピッチピッチチヤップチヤップランランランだけど、濡れるのが嫌だ。

午前中で全部バラシ終って洗浄手入。とても締麗になる。午後は組立、主翼の割ピンで丁度フィットするのがなくて1時間半も手間取った。他より遅れて残念無念。段々雨がひどくなる。煙突に連繋黒球が四つ、暴風来を教へてゐる。帰りは全く濡れ鼠になった。今日から冬服。昼食時、水上機と陸上機との希望別調査があったから水上機の大飛行艇にした。

 

昭和18年9月22日(水曜白)

からりと日本晴。なんて涼いんだらう。あんまり涼し過ぎて昨夜は毛布一枚では寒かった。朝母子草〃を100頁程読んだ。弘次が叔母さんの所にあづけられてゐた頃の思ひ出と重なって涙しさうで困った。人の愛情に生きること−人の真情の中にのみ生きることが大事なのだと思った。夕方母子草を読み終った。愛って何て大きいんだろう。弘次達が喜んで戦いに死んで行けるのも愛だ。弘次は自分は愛に飢えて育って来た……と思った

然し、全然さうではない。母の愛−兵学校時代に幾度か夜のベッドに涙した家の苦境時代の母の姿‥…・、千葉先生の愛、親族の愛、愛って何て大きいんだらう!弘次の愛の使命…もつと〈美しく強く考へよう。

 

昭和18年9月23日(木曜日)

山本さんの小母様から御葉書を頂いた。武弘様が勲6功5を戴いたさうだ。小母様の御心はもうきれいに澄んで居られるだらうか。

宗ちゃんが、ちゃんと自覚して小母様に御安心して頂ける様に努力されん事を祈る。家に葉書を出した。水上機を希望したことにどんなに感ぜられるだらう。希望には大飛行艇にょる大遠距離索敵爆撃を熱望すと書いたのだが、飛行艇に行けると決まった訳のものではない。

 

昭和18年9月24日(金曜日)

7時、学生総員会議室に集合。7時30分.兵舎前広場で、飛行長(主任指導官)の訓示があった。

夜の映画は「マー坊の落下傘部隊」、元気で行かうよ。

 

昭和18年9月25日(土曜白)

夜の映画は「ジャングルの恋」

 

昭和18年9月26日(日曜日)

昼間、叔母さんと文男君と御弟子さん二人で、上野の美術博物館で絵の展覧会を見に行った。絵って素暗しいな。絵って高い高い所迄行けるものだな、いいなと思った。昼食は売切れて無かつたので帰って遅い昼食。

 

昭和18年9月28日(火曜日)

夜、40期が食堂で教官の送別会をやった。終ってから学生舎中を練り歩いて大変だった。教官がすごい恰好で室に侵入して来る。所謂海軍さわぎ……初めて経験した。だが思ひ切って騒いで、次はもりもりと鍛へられるのはよい。

 

昭和18年9月29日(水曜日)

雨。午前中課業に出ず退隊準備。昨夜写真室の兵隊に頼んだフイルムの現像が出来ていたので貰って来た。荷物をトラックに積む。旅費2150銭は弘次が印を紛失していたので一人だけ貰わずに来てしまった。印を作って公用便に取りに寄らせ…と。本部に行って司令副長の身体を大切にして努力奮闘せよとの御訓示を受け、准士官以上の見送りを受け退隊。バス3台で丁度30分かゝつて鹿島航空隊に着いた。

夜は会食。遂に弘次生れて始めての「ビール」を飲んだ。不味い。嫌だな。何とも云へぬ味がする。然し座を白けさすまいとして飲んだが辛かつた。40期が3日間航空糧食を食べずにしまって置いて下さって作ったと云ふケーキは美味しかつた。飯は銀飯。

 

昭和18年9月30日(木曜白)

総員起し、15分前に起床。40分朝礼。血沈を取りに病室に行く。通信なし。午後の課業始「前へ」の途端、副長が大声一喝「待て、41期飛行学生待て、何か其の行進は。それが兵学校を卒業した候補生の行進か。練習生の行進を見て居れ」顔が青くなる思いだった。何とも言へぬ心持だった……午前は指揮所前で分隊長松島大尉の説明、弘次は1人飛行服を着て試運転をやった。午後の体操後、前記の事件。学生室で松島大尉の飛行操縦法に関する教務、夜の通信後、翼素理論と操縦理論の映画。帰つてから41期は食堂に集合。市川少尉と佐波少尉とから今日の事に関連して、種々御注意があった。其の内に山本中尉も来られ雑談をされた。夜食あり。

明日よりの奮起を誓ふ。打てば響く〃の兵学校出の本領を発揮せん。

 

昭和18年10月1日(金曜日)

7時30分より41期飛行学生と12期乙学生の始業式。司令宇宿大佐が烈々たる訓示をされた。防空演習が早朝から開始されてゐる。8時15分飛行作業開始。第1回目、覚えていったことが三分の一も出来なかった。離水のガタンコガタンコはこたえた。水上滑走って難かしそうだと思う。視界が悪くて地平線が殆んど見えなくて困った。少しもあがらず平然と操縦が出来た。

午後に霞空に座学。1時半からの予定が始めたのは2時半、終つたのが4時45分。夜、其暗闇で防空壕に落っこちた。酒保は甘納豆と干菓子、あべ川餅。何処にも御無沙汰して困った。

(なにわ会ニュース37号44頁 昭和52年9月掲載)

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