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兄と私となにわ会の靖国神社   平成29年9月3日

                        靖国神社参拝遺族団なにわ会代表
                               岡 野  武 弘


 兄・井尻文彦は、昭和十八年九月、海軍兵学校卒七十二期生として、飛行学生を経て少尉任官、偵察機搭乗と決まりました。
 台湾沖航空戦で、敵偵察機一機と空戦、撃墜したものの、基地への帰投中エンジン故障で、不時着水、漁師に救われました。昭和十九年末、佐世保航空隊所属となり、零式三座水偵機搭乗の分隊士として中尉に昇進、部下と共に、(敵潜水艦一隻撃沈の効果大なり)の戦果を挙げた事は確かです。

 その兄の殉職死の公報が届きました。二月十三日没でした。大分県佐伯湾外竹島沖で、急降下爆撃の訓練中、海面に激突、一度、尾翼が出ても、其の儘、水没という事でした。

 父・武彦の鞄持の供をし、二十一日の佐世保航空隊海軍葬儀に臨みました。大格納庫内の、全将兵整列の中を、司令官の先導に従い、都立八中二年生の私は、粛然と歩を進めました。
 司令官・藤原喜代間少将と松原一夫中尉の弔辞を聴きました。模範の将校、細心大胆な飛行振りと賞され、沖縄・九州近海に敵潜が増え、急降下が必須となり、水上機の練度向上の訓練の総合指揮を執っていた中の事故であったそうです。兄の偉勲の後に続くと、隊員一同の弔意と共に、戦意が宣せられていました。

 大尉昇進の兄の巨大な位牌の前に進み、兄の名誉の為に、涙を堪え、毅然として遺族の挙措を果たしました。後は、呆然と、兄の帰省時の鞄持ちの歓喜、六郷川の水泳、ボート、野球などと、特に、兄に教わった島崎藤村作の「朝」の合唱で、ハーモニーが最高の時の破顔大笑の兄を想い出し、この葬儀が夢であれ、と姿勢正しい隊員整列を見詰めた儘でした。
 人命尊重の海軍葬儀の厳粛に触れ、改めて、日本海軍の奥深さに敬意を持ちました。水兵儀伎隊の弔砲3発の轟音で終了でした。

 兄の死を納得し、浮き出た兄の右飛行靴の入った遺骨箱を抱き、鹿児島本線、空襲三回の三日後の夜中、大鳥居駅に降りると、百人程の町民が明々とした幟提灯で迎えて呉れていました。
 母は、私か抱く遺骨に最敬礼し、「文彦、お帰りなさい」と挨拶しても、家の仏間では、号泣狂乱し、それを抱く私でした。

 四月十四日、B29大編隊とグラマンF6F機の大空襲が夜明けまで続き、阿鼻叫喚の地獄から家族は命を拾いました。この日が、兄の二十二歳となる誕生日で、兄が、自分の誕生日を、家族の命日にする訳が無いと、焼け跡の青空を仰ぎました。

 八月一日、中学3年生で。工場勣員中の私は、学校推薦で海軍兵学校入校待機生に合格、品川海軍経理学校(現・海洋大)に集結しました。手旗、カッター、結索など、訓練経過中、連夜のグラマンF6Fの機銃掃射を浴び、親しくなった同分隊の茨城県出身の仲間の銃丸貫通の体を抱いたのですが、八月十三日の終戦二日前の事でした。

 昭和二十七年、海軍3校(海軍兵学校七十二期、機関学校五十三期、経理学校三十三期)の先輩方同期クラスによる靖国参拝遺族会の立ち上げの(なにわ会)は、海内無双、一致団結の船出を盛大に行いました。

 古武士寡黙の父と悲嘆の母も、優しく接待の同期生の孝養の誠意の挙措に亡兄の再来を見て生気回復、私も、世田谷区の新米教員の時で、兵学校五省の精神で海軍丸出しの愛ある公正な教育を実践しました。

 以来六十年、神のような存在の同期先輩方も御高齢となられ、会の存否を問う機に、上野三郎、村山 隆、深尾秀文の三校同期幹事の御三方と3回の会合相談、存続と決め、運営を遺族側に移行、会友方をお招きしての恩返しの永代神楽祭主催の3年目が経過中となったのです。
 同期会友の方々の兄弟姉妹、夫人の方々とは、存続に当たって、世に教科書となるような手紙と資料の内容の交歓に深く学びました。その方々も寄る年波、もう少し早く、スタートすべきであったと思いました。貴重な文書は、優に段ボールに満ちています。

 現在、七十九家族、百名ほどの会員です。子々孫々縁者、知己に輪の和を広げ、戦没・戦後没の同期会友方全ての慰霊の永代神楽祭を永久に続けたいと願うものです。
  (なにわ会ニュース)は、同期生編集の戦記等で、貴重な財産ですが、なにわ会のHP(原田佳明氏管理)を索引し、世に、広めて下さるよう願うものです。又、目下、幹事は五名ですが、随時募集中です。

 遺骨無く、殉国の士の魂の宿る靖国神社は、同期の桜の墓標です。 靖国神社は、財政的に国の援助は無く、国家的支援が望まれます。縁故知己に輪を広げ、慰霊崇敬の誠を尽くしましょう。
 因みに、本年の終戦記念日、午後は雨となっても参拝多く、遊就館では、若者たちで盛況でした。特攻とテロとの違い、戦犯の是非、将兵方の血書の文字内容、階級章、兵器、大東亜戦争の経過と敗因等疑問を持つ声多く、その話の仲間に入り、八十六歳の老骨の体験を踏まえた説明
が出来ました。被虐史観横行のマスコミ社会に、日本の良さを遠慮なく伝える知恵と勇気が必須となったと思う事頻りのこの頃です。

 なにわ会の永続を願い、お互いに頑張ろうではありませんか。